今月のニュースレターでは欧州委員会が2月26日に公表した、規制簡素化のためのオムニバス法案パッケージを解説します。
オムニバス法案パッケージにおいて欧州委員会は、産業界の競争力とイノベーション力向上、投資機会と雇用の創出を目的として、企業サステイナビリティ報告指令(CSRD)[1]、企業サステイナビリティ・デューデリジェンス指令(CSDDD)[2]、EUタクソノミー規則[3]、炭素国境調整メカニズム(CBAM)[4]、といった、サステイナビリティな社会を実現する金融政策上の要となる広範な範囲の法律を改正し、規制を簡素化することを提案しました。
これらは一定の条件を満たす日本企業にとっても影響が大きい法律であり、2022年以降に適用開始、又は現在も移行期間にあるかなり新しい法律であるため、EUの状況を注視している読者も多いでしょう。規制によっては実際の運用が開始されていないこの時点で、すでに改正されるに至った背景は何か。EUのサステイナビリティ目標が後退することを示すのか、あるいは米国のトランプ政権に代表されるような環境政策に対する反発や大きな揺り戻しがあるのか。本ニュースレターでは、こうした疑問に答えると共に、オムニバス法案パッケージの概要と日本企業への影響の見込みを解説します。
(1) EUのサステイナブルファイナンス行動計画と各法律の成立の背景
遡ること2018年、欧州委員会は「サステイナブルファイナンス行動計画」を通じて、資本市場のキャピタルの流れを持続可能な投資を促進する方向に誘導すること、気候変動リスクや環境リスクを金融システムに統合し金融の安定性を確保すること、そして透明性と長期的視点を市場活動に組み込むことを目指しました。この行動計画は2019年にフォン・デア・ライエン委員長の下で発足した欧州委員会に引き継がれ、2050年までに気候中立 (カーボンニュートラル) を実現させることなどを政策目標とした「欧州グリーンディール」の下においても、目標実現に必要な金融システムの改革や、資本を再生可能エネルギー・エネルギー効率化への投資に誘導させるための法的な枠組みが構築されました。
具体的には、EUタクソノミー規則により「持続可能な経済活動」とは何かを定義するための統一基準を整え、欧州の金融機関に対してはサステイナブルファイナンス開示規則(SFDR)[5]を通じて、保有ポートフォリオの持続可能性に関する情報開示を義務付けました。
並行して、EU域内で経済活動を行う企業に対しては、EUタクソノミー規則下で自社の経済活動のうちサステイナビリティ基準に沿う割合の開示を、企業サステイナビリティ報告指令(CSRD)にて広範な範囲における非財務情報の開示を義務付けることで、投資家の判断に共される情報を標準化し、透明性を高めました。従来、サステイナビリティやESG (環境、社会、ガバナンス)報告書に関する国際的なガイドラインはありましたが、いずれも企業の自主的な取組みであったことに対し、EUでは欧州サステイナビリティ報告基準(ESRS)[6]に基づく非財務情報の開示が法的に義務付けられることになりました。また報告内容の正確性を担保するため、ESRSに基づき開示される非財務情報の第三者保証が義務付けられました。まさに非財務情報が財務情報と同格の位置づけとなったのです。
これにより、金融機関としては、気候変動や社会的課題が各企業の長期的な業績に及ぼすリスクと同時に、企業が地球環境や地域社会等に与える正負の影響を同じ指標でベンチマークすることが可能となり、投融資判断に役立てることができます。そして金融機関は自らのポートフォリオの持続可能性に関する情報をSFDRに基づき開示する、という循環が成立しました。
また非財務情報の開示義務の対象には、EU域内の金融市場で上場する企業だけではなく、EU域内で一定規模以上の経済活動を行う日本企業の子会社・支店や、その親会社である日本企業本社グループも含まれることに留意が必要です。そのため、日本企業にとっては、EU地域報告書の新たな発行や、グループ統合報告書のアップグレードに大きな労力が必要であると見込まれています。
(2) オムニバス法案パッケージの背景
このようにEUでは金融政策の一環として、持続可能性を重視した政策を推進してきましたが、欧州委員会が法律の網羅性と正確性を担保しようとすればするほど、つまり法案を作りこめば作りこむほどに、内容は複雑化・高度化し、企業にとっては対応するために必要な事務負担が増加する傾向が生じていました。例えば、ESRSで報告対象となるデータポイントは定量・定性情報を合わせて約1,200もあり、コンサルタントの試算によれば、そのうち中堅規模の企業が報告書に含めるべきデータポイントは平均で500を超えると見込まれます。多くの企業ではこれら非財務情報は社内の広範な部門、部署、子会社等でばらばらに管理されており、中には現在まったく収集・管理されていない情報もあり得ます。これら情報の収集・分析、ESRSに適合するダブル・マテリアリティ・アセスメントの実施、社内ガバナンス体制の構築、ITツールの導入、報告書への取りまとめ等には一般的な企業で2年以上かかると想定され、特に中小企業(SMEs)にとって過剰な負担であり、競争力を損なう可能性が指摘されていました。 さらに、CSRDの双子法律ともいえるCSDDDでは、サプライチェーン上におけるデューデリジェンスの実施義務を大企業に負わせていますが、結局はサプライチェーンに位置する中小企業に情報収集負担や対応コストが転嫁される負の波及影響が生じるのではないかと、長らく懸念されていました。
同時期に、欧州では2020年のパンデミック、2022年のロシアによるウクライナ侵攻とそれに続くエネルギー価格の高騰、近年の地政学的な緊張の高まりといった外部要因が、欧州企業の競争環境をさらに厳しくしており、競争力強化が急務と見なされるようになりました。2024年6月の欧州議会選挙やそれに先立つ主要加盟国の国政選挙では、産業競争力の維持強化が政策争点の一つとなる一方で「緑の党」が大幅に議席を減らすなど、世論全体が明らかに政策の優先順位の変更を求めていることを示したことも、欧州委員長として同時期に再選されたフォン・デア・ライエン氏が政策を見直す後押しになったと考えられます。
そこでフォン・デア・ライエン氏と加盟国首脳は、イタリアの元首相ドラギ氏に、欧州の競争力を高めるための政策的な方向性を示す報告書の作成を依頼しました。2024年9月に公表された通称「ドラギ・レポート」では、複雑で過剰な規制が欧州の競争力を阻害しているとの指摘がなされ、続いて11月にEU加盟国の首脳は「ブダペスト宣言」の中で具体的に“規制の簡素化革命”を欧州委員会に要請しました。欧州委員会はその回答として今年1月に発表した「Competitiveness Compass」において、規制簡素化を優先課題とすることを対外的に示し、企業に対する負担を25%、中小企業に対しては35%削減させることが、今政権のミッションとして明示されました。オムニバス法案パッケージは、このような経緯を経て公表された、複数の具体的な法律改正案のパッケージなのです。
(3) オムニバス法案パッケージのポイント
オムニバス法案パッケージに含まれる主な改正案は、以下のとおりです:
CSRDの改正
· 報告対象企業の縮小: 持続可能性報告の対象を従業員数1,000人(現法令では500人)かつ売上高5千万ユーロを超える大企業に限定。上場中小企業は報告義務から除外。報告義務の対象企業数が約80%削減されると見込まれます。
· 中小企業への影響軽減: バリューチェーンにおける情報収集の制限を設け、報告対象外の企業に対して過剰な情報要求を行わないよう規定。
· 任意報告基準の導入: 報告義務のない企業が利用できる簡易な任意報告基準を導入。
· セクター別報告基準の廃止: セクター(業界)別の報告基準を廃止し、報告要件の複雑化を防止。
· 保証要件の簡素化: 現行法で予定されていた限定保証(limited assurance)から合理的保証(reasonable assurance)への移行を廃止し、保証コストの増加を防止。
· 適用開始日の延期: 非上場企業(日本企業のEU域内子会社・支店を含む)に対する義務付けを2026年1月から2028年1月(2027会計年度データ)に後ろ倒し。
· 報告基準の改訂: ESRSが定める報告項目のうち自社への関連性が低い項目の情報開示をスリム化、定量的データを優先し強制的な情報開示項目と自主的なものを明確化することで企業の負担を軽減しつつ、国際基準にそろえる。なおブリュッセルでの非公式情報では、欧州委員会がESRSを制定する欧州機関であるEFRAGに対し、報告項目を3割程度減少させるESRS改定案を8月末までにまとめるよう求めているようです。
期待される効果
これらの変更により、報告義務が免除される日本企業が増えるでしょう。また企業の報告負担が軽減され、非財務情報の収集・報告にかかるコストがある程度低減することが期待されます。
CSDDDの改正
· デューデリジェンス範囲の縮小: 企業のデューデリジェンス義務対象を直接的なビジネスパートナーに限定し、間接的なパートナーに対する義務を、情報がある場合に限定。
· デューデリジェンス頻度の削減: 定期的なモニタリングの頻度を1年から5年に延長。
· ステークホルダーの関与の範囲の縮小: 関与が必要なステークホルダーを限定し、関与が必要なプロセス段階を削減。
期待される効果
企業のデューデリジェンスにかかる負担とコストが削減されること、特に中小企業への負担が軽減されることが期待されます。対象企業との直接的な取引がない日本企業にとっては、従来懸念されていたような大きな負担増が発生しにくいことが見込まれます。
その他の改正
· EUタクソノミー規則改正: 報告義務対象企業によるOpEx KPI報告義務の廃止、統合テンプレートの簡素化と約70%のデータポイントの削減、適格な(eligible)経済活動が全活動の10%以内の企業について適合性(alignment)報告の免除、 ‘Do no significant harm’条件の緩和など。特にOpEx KPIの報告が義務でなくなることで、煩雑な事務負担が回避されることが期待されます。
· 炭素国境調整メカニズム(CBAM)の簡素化: 年間50トン未満の小規模輸入業者を報告義務対象から除外、報告要件や排出量計算方法の簡略化。これにより99%以上の排出量をカバーしつつ、輸入業者のうち10%の大規模業者(鉄・鉄鋼、アルミニウム、セメント、肥料)のみを対象。小規模輸入業者であることが多い日本企業はCBAM対象から除外されることで、報告の事務負担や炭素税コスト負担を回避できます。
· InvestEU規則下の報告義務の低減: InvestEUプログラム参加者の事務負担を軽減することで合計3億5千万ユーロを削減し、約500億ユーロの追加投資を動員。
このような一連の法律改正により、欧州委員会は年間63億ユーロの行政コストを削減し、中小企業の負担軽減と競争力向上を図れるとしています。
なお、一連の法案は未だ採択されておらず、実際に法改正が採択されるまでは実効性がないことに留意ください。ただし、これらは前述のように現欧州委員会の優先ミッションであり、加盟各国の支持も得ていることから、多くの改正案は今年中~遅くとも来年には採択され、効力を発するものと見込まれます。
(4) おわりに
EUオムニバス法案パッケージの発表とそれに至った経緯を眺めて感じられるのは、持続可能性目標と経済成長の両立を実現させる難しさです。欧州で進められている規制簡素化の波は、決して従来の持続可能性ビジョンと相反するものでも、持続性目標を撤回するものでもありません。現に、現政権が昨年10月発足後すぐ発表したクリーン産業ディール (Clean Industrial Deal)やそれに続く一連の公表資料では、2050年カーボンニュートラル目標や、サーキュラーエコノミーへの変革といったビジョンにぶれは生じていません。現在は、ある意味行き過ぎを反省し、より現実的な制度設計を通じて企業の過度な負担を回避するよう、この法案パッケージを通じてバランスをとろうとするフェーズであると言えるでしょう。
一方、この数週間、米国を起点とする関税戦争による経済衰退懸念や、ウクライナ戦線におけるEU負担の増大・防衛費の増加等、世情は急激に大きく変動しており、EUや世界各国の政策の優先順位が変わることはあり得ます。それに伴い、企業によるサステイナビリティやESGへの取組みについて、EUはじめ各国の政策や世論の揺り戻しが起きる可能性は引き続き懸念されます。
このような不確実性の高い時期に長期的展望を分析する際、環境学では予測確度の高い統計情報である人口をベースとすることが多いのですが、2050年にアジア地域の人口が、2080年に世界人口がピークを迎える一方、地球上の資源枯渇の懸念や気候変動による環境変化は継続するため、今後数十年間はサステイナビリティが人類の共通課題であり続けることは容易に予測されます。実際に、WBCSDといった国際会議の場においても、引き続き企業のサステイナビリティ努力を促す国際的な枠組みが必要であるとの声も聞こえます。地球規模の課題に対応し、現在と将来の世代が共に繁栄できる社会を築くための価値創造を提供できる企業は長期的に成功を持続できると、当社は信じています。不確実性の高い時代であればこそ、SDGsを達成していていくことが重要だと当社は考えており、長期的な視野をもって、サステイナビリティ投資への取組を継続する方針です。
SDGインパクトジャパン
宮田祐子
[1] Corporate Sustainability Reporting Directive
[2] Corporate Sustainability Due Diligence Directive
[3] EU Taxonomy Regulation
[4] Carbon Border Adjustment Mechanism Regulation
[5] Sustainable Finance Disclosure Regulation
[6] European Sustainability Reporting Standards
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